"いかにも美しく感動的であった"

Wikipedia大江健三郎の項目に次のような一節がある。

秦郁彦は、1967年の中国の核実験の成功について大江が「(キノコ雲を見守る中国の研究者らの表情を)いかにも美しく感動的であった」と評していることを批判した[21]。

(大江健三郎 - Wikipedia,太字による強調は引用者)


これだけ読むと大江が中国の核実験を賛美していたように思える。実際そのように解釈して批判している人がweb上には多い。
この言葉が実際にどのような文脈で書かれたのか、以前から確認したいと思っていた。
そこで、図書館で、元の文章を探して読んでみた。
問題の文章は岩波書店『世界』の1967年9月号に掲載された、『パール・ハーバーにむかって -アメリカ旅行者の夢 IV-』と題されたエッセイだ。

アメリカのナンタケット島に行った時の記憶から語りだされ、『白鯨』の話から核時代、戦争における憎悪の連鎖についてというふうに展開する、わりと長めのエッセイだ。
このエッセイで大江は、戦争を威力や憎悪の応酬と捉える従来の論理(やられたらやりかえす、パール・ハーバーがあったからこそヒロシマナガサキがある、というような)に対して、被爆国の日本は、その絶対的な悲惨さを中心に戦争を考える論理を世界に向けて押し出すべきではないか、というようなことを述べている。
問題の一節が含まれた前後の段落を以下に引用する。

 たとえば、僕はアメリカの最も善良な市民から、パール・ハーバーと広島・長崎を、その意識のうちにおいて相殺しているのではないか、という印象をうけることがしばしばあった。もし、パール・ハーバーの戦闘および、広島・長崎の原爆攻撃を、戦争のもたらす人間的な悲惨において比較するなら、そこにバランスがとりうると考えるものは、きわめて稀であろう。すなわち、そこには戦争の手段の威力の比較の論理しか存在してはいないために、パール・ハーバーと広島・長崎の相殺といったことが可能だったのである。
 それはアメリカのみにとどまらない。中国の核実験を写したフィルムを深夜のテレヴィに見た時、僕をおそった暗い恐怖感のことを僕は永く忘れることがないだろう。中国のある砂漠の一角にキノコ雲がおこった時、それを見守る中国の若い研究者たち、労働者たちを揺り動かした喜びの表情は、客観的にいっていかにも美しく感動的であった。サルトルがわれわれに語った言葉をひけば、《核戦争の脅威に無防備のままさらされていると自覚している国》が自力で核兵器を開発した喜びは、かれらの若い表情から直接につたわってくるものであった。
 しかし核実験の直後、およそ軽装の防護服を身にまとったかれらが、放射能の荒野に、勇んで駆け出すのを見ると、それは不安の念をひきおこさずにはいない。かれらには今、開発したばかりの核兵器の威力についての誇りにみちた知識はあるであろうが、核兵器のもたらす人間的悲惨については、ほとんど知識がないのではないか、と僕は疑った。ありていにいえば、当然、かれらはその知識に欠けているであろう。なぜなら、核兵器の悲惨について具体的に真実を知っている者たちのいる場所は、この核時代にあっても、なお広島・長崎の原爆病院をおいてはほかにありえないからである。

さて、これは大江が中国の核開発を単純に喜んでいる、賛美している文章だろうか。
私にはそうは読めない。この文章で大江は中国の核実験を強く恐怖している。

中国の核実験を写したフィルムを深夜のテレヴィに見た時、僕をおそった暗い恐怖感のことを僕は永く忘れることがないだろう。

それに続く文章は、
・見た目はいかにも美しく感動的な光景だが、
しかし本当は恐ろしく悲惨なものなのだ、
という対比を語っている。この後半を切れば、当然ながら、文章の意味は逆になってしまう。
"いかにも美しく感動的であった"という一節だけが切り取られるのは、恣意的な引用による印象操作の、露骨な、わかりやすい例だといえる。

問題は、こういう稚拙なトリックが、原文を確認しようとしない人びとーー私自身もそのひとりだったわけだがーーにはそれなりに有効だということだ。