大江健三郎と中国の核実験(1964)

前の記事に関連して、大江が1964年の中国の核実験に実際にはどのように反応したかのメモ。

1964.10.26,中国で最初の核実験が行われる。
596 (核実験) - Wikipedia

1964.11.22 南原繁大江健三郎など24人,中国の核実験に抗議の声明書発表.
(http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/cgi-bin/retrieve.cgi?Module=nenpyo1&condition=AND&name1=19641122&input_limit=50)

このとき大江は日中文化交流協会を退会している。

しかし、ぼくは中国の核実験に接して、次のように書き、日中文化交流協会を個人的に退会しました。個人的に、というのは、ぼくの退会が連鎖反応をひきおこしたりすることがないよう、自分の態度決定についてなにも書かない、なにも話さない、ということをきめた、というほどの意味です。
(『戦後世代の中国・沖縄感覚』)

"次のように書き"、というのは『ヒロシマ・ノート』のこの一節だ。

 この核兵器の時代の、つい昨日まで、原水爆を所有しうる力をもちながら、しかもそれを所有しない国のイメージは、もっとも新しい人間的な政治思想そのものを提示するイメージであった。しかしいま、僕がこのノートを書いている一九六四年十月、中華人民共和国はすでに、そのようなイメージの国ではなくなった。それは、とにかく、なにか別の国だ。

同じ心情が『憲法第九条について』というエッセイではもっと簡潔に書かれている。

 中国の核実験の際、僕は、あえて核武装しない大国という、中国へのロマンチックな夢を失った。

大江はこのように中国の核実験への抗議声明に名を連ね、中国への失望を語った。
しかし『ヒロシマ・ノート』にはこのような文章もある。

 中国の核実験にあたって、それを、革命後、自力更生の歩みをつづけてきた中国の発展の頂点とみなし、核爆弾を、新しい誇りにみちた中国人のナショナリズムのシムボルとみなす考え方がおこなわれている。僕もまたその観察と理論づけに組する。

ここだけ読むと中国の核実験を肯定しているようだが、この後に続く文章がある。

しかし、同時に、それはヒロシマを生き延びつづけているわれわれ日本人の名において、中国をふくむ、現在と将来の核兵器保有国すべてに、否定的シムボルとしての、広島の原爆を提示する態度、すなわち原爆後二十年の新しい日本人のナショナリズムの態度の確立を、緊急に必要とさせるものであろう。したがって広島の正統的な人間は、そのまま僕にとって、日本の新しいナショナリズムの積極的シムボルのイメージをあらわすものなのである。

ここで示されている考え方は前の記事でのエッセイと同じ方向のものだ。
大江は中国の核をふくむ全ての核を否定するために日本人の被曝経験を提示することを求めている。たとえ政治的独立のために核を必要としたのだとしても、それでもすべての核は等しく否定されるべきだ、日本の広島・長崎の経験こそがその根拠だ、という主張だ。

以下に『核時代の想像力』(1968)から長めの引用をする。

ぼく自身がサルトルにはじめて会って話を聞いたときは、一九六一年のパリで、アルジェリア戦争終結をむかえようとしていました。それはまたフルシチョフが核実験を再開した直後でもあったわけですが、サルトルは、フルシチョフの核実験の再開はまったく残念だけれども、米ソ両国のどちらが、核軍縮にむかって真剣に努力しているかといえば、それはソヴィエトであろう、それは評価しなければならない、という意味のことをいいました。そして昨一九六七年、サルトルが日本にきましたときに、あらためて中国の核実験についてどう考えているかということをたずねますと、サルトルの答えは、中国がアメリカの核兵器のもとで永年やってきた以上、アメリカの、核兵器に対抗するためには、核兵器をもたざるをえないとして、それを事実、もつにいたったことを評価する、という意見でした。もちろんサルトルはかれ自身フランスで、フランス自体の核武装およびあらゆる国の核武装に反対するところの運動には参加しているはずです。しかもなお、中国の核武装を全面的に否定することはできないというのが、ジャン=ポール・サルトルの意見の表と裏をあわせた全体だったように思います。
 ぼくはいまあらためて、核兵器の出現は、国民戦争から人民戦争にいたるまで戦争の歴史が発展してきたとき、突然あらゆる戦争の局面に、反動的な逆転をもたらした、というサルトルの、いわば核兵器にかかわる歴史観とでもいう考えかたを、現在もなお核戦争にたいする根源的な見かたのすぐれたかたちとして評価したいと考えています。

この文章もまた、ここだけを雑に読めば中国の核兵器をある面で評価するサルトルの考えかたを大江が肯定しているように思えるかもしれない。
が、これもまた続きがあるのだ。

(…)世界の終滅かもしれぬ戦争が核兵器の本質によってわずかにひとつかみの人びとの巨大な権力によっておこなわれる、権力の座にあるところのひとつかみの人びとによっておこなわれうる、そういう時代に、民衆が自分自身を救助しようとすれば、自分自身を生き続けさせようと思えば、民衆のひとりひとりがそうした理不尽な巨大な力に抵抗しなければならない(…)

 そこで核兵器による戦争に抵抗しうるとして、そのためにまずなにが必要かと考えますと、いくたびかぼくはそれについて文章を書いてきたのですが、つぎのように整理したいと思います。(…)核戦争とはどういう悲惨なものかということを日々、想像する力をもちつづけているほかにない。それがまず第一にあると思います。しかも日本人は、核戦争をすでに二度体験した国民です。すでに二度の核爆発を経験している。福竜丸事件をいれれば、じつに三度の経験です。その日本人が核戦争の悲惨を具体的に記憶しつづけること、それが世界のすべての人びとの、未来の核戦争の悲惨への想像力の支えとなるべきところのものであろうというのが、ぼくの考えかたです。

広島を中心とした地方に刊行されている中国新聞の金井利博氏が出された問題提起ですが、すなわち「原爆の悲惨さよりも原爆の威力を、核兵器の悲惨よりも核兵器の威力を」強大国が宣伝しつづけているということがある。それにたいしてわれわれはどのように抵抗するべきか。当然それはあらためて、「核兵器の威力よりも核兵器の悲惨を」はっきりまえに押しだして広島の経験をあらためて認識することでしょう。それが広島に生きのこった人間の仕事だということを金井利博氏はいっておられます。そしてぼくはそれが正しいと考えています。

今日の国家には、それはアメリカのみならず、ソヴィエトのみならず、また英国、フランス、中国のみならずということですが、それが資本主義体制の国家であるか、社会主義体制の国家であるかをこえて、いかなる国もそれが核兵器を所有した瞬間に、その権力の構造のうちに本質的に反動的なるものが忍びこんでしまうということをくりかえし考えるべきです。一応は民衆の、または人民の名においてではあるけれども、しかし、ひとつかみの人間の手が核兵器のボタンを押す力を持ち、それによってまことに厖大な民衆の規模の悲惨がみちびかれるという、おそろしいかぎりの反動的状態の罠にあらゆる国家が落ちこんでしまう。端的にいってそれが核武装というものではないか、それは資本主義国家のみにとどまらない。それは中国においてそうではないだろうか。ソヴィエトにおいてもまたそうではないだろうかと疑ってみる必要があるとぼくは考えるのです。

大江は当時の状況に対するサルトルの観察に敬意を示した上で、しかし、状況の前提条件に抵抗すべきだ、と述べている。それは前の記事で取り上げた文章の中で、中国の技術者達の誇りを認めた上でしかし、と続けるのとまったく同じ書き方だ。『沖縄ノート』から引いた文章も同様である。

"いかにも美しく感動的であった"

Wikipedia大江健三郎の項目に次のような一節がある。

秦郁彦は、1967年の中国の核実験の成功について大江が「(キノコ雲を見守る中国の研究者らの表情を)いかにも美しく感動的であった」と評していることを批判した[21]。

(大江健三郎 - Wikipedia,太字による強調は引用者)


これだけ読むと大江が中国の核実験を賛美していたように思える。実際そのように解釈して批判している人がweb上には多い。
この言葉が実際にどのような文脈で書かれたのか、以前から確認したいと思っていた。
そこで、図書館で、元の文章を探して読んでみた。
問題の文章は岩波書店『世界』の1967年9月号に掲載された、『パール・ハーバーにむかって -アメリカ旅行者の夢 IV-』と題されたエッセイだ。

アメリカのナンタケット島に行った時の記憶から語りだされ、『白鯨』の話から核時代、戦争における憎悪の連鎖についてというふうに展開する、わりと長めのエッセイだ。
このエッセイで大江は、戦争を威力や憎悪の応酬と捉える従来の論理(やられたらやりかえす、パール・ハーバーがあったからこそヒロシマナガサキがある、というような)に対して、被爆国の日本は、その絶対的な悲惨さを中心に戦争を考える論理を世界に向けて押し出すべきではないか、というようなことを述べている。
問題の一節が含まれた前後の段落を以下に引用する。

 たとえば、僕はアメリカの最も善良な市民から、パール・ハーバーと広島・長崎を、その意識のうちにおいて相殺しているのではないか、という印象をうけることがしばしばあった。もし、パール・ハーバーの戦闘および、広島・長崎の原爆攻撃を、戦争のもたらす人間的な悲惨において比較するなら、そこにバランスがとりうると考えるものは、きわめて稀であろう。すなわち、そこには戦争の手段の威力の比較の論理しか存在してはいないために、パール・ハーバーと広島・長崎の相殺といったことが可能だったのである。
 それはアメリカのみにとどまらない。中国の核実験を写したフィルムを深夜のテレヴィに見た時、僕をおそった暗い恐怖感のことを僕は永く忘れることがないだろう。中国のある砂漠の一角にキノコ雲がおこった時、それを見守る中国の若い研究者たち、労働者たちを揺り動かした喜びの表情は、客観的にいっていかにも美しく感動的であった。サルトルがわれわれに語った言葉をひけば、《核戦争の脅威に無防備のままさらされていると自覚している国》が自力で核兵器を開発した喜びは、かれらの若い表情から直接につたわってくるものであった。
 しかし核実験の直後、およそ軽装の防護服を身にまとったかれらが、放射能の荒野に、勇んで駆け出すのを見ると、それは不安の念をひきおこさずにはいない。かれらには今、開発したばかりの核兵器の威力についての誇りにみちた知識はあるであろうが、核兵器のもたらす人間的悲惨については、ほとんど知識がないのではないか、と僕は疑った。ありていにいえば、当然、かれらはその知識に欠けているであろう。なぜなら、核兵器の悲惨について具体的に真実を知っている者たちのいる場所は、この核時代にあっても、なお広島・長崎の原爆病院をおいてはほかにありえないからである。

さて、これは大江が中国の核開発を単純に喜んでいる、賛美している文章だろうか。
私にはそうは読めない。この文章で大江は中国の核実験を強く恐怖している。

中国の核実験を写したフィルムを深夜のテレヴィに見た時、僕をおそった暗い恐怖感のことを僕は永く忘れることがないだろう。

それに続く文章は、
・見た目はいかにも美しく感動的な光景だが、
しかし本当は恐ろしく悲惨なものなのだ、
という対比を語っている。この後半を切れば、当然ながら、文章の意味は逆になってしまう。
"いかにも美しく感動的であった"という一節だけが切り取られるのは、恣意的な引用による印象操作の、露骨な、わかりやすい例だといえる。

問題は、こういう稚拙なトリックが、原文を確認しようとしない人びとーー私自身もそのひとりだったわけだがーーにはそれなりに有効だということだ。

『破壊者ウルトラマン』(1973)

概要

大江健三郎ウルトラマンを始めとする怪獣映画・特撮番組について書いていることで有名な一篇。書かれたのは1973年、大江は当時38歳だった。

内容について

本文は4つの節に分かれる。
以下に段落ごとの内容を自分なりにメモ。

(1)
  1. 子供のための作品は大人の意識と想像力によって作られる。子供の想像力を解放するためには、大人の自立した想像力によって作品を作ることが必要である。しかし大人というのは子供の否定によって成り立っているので、事態は複雑になる。
  2. 子供向けの作品には、上に示したような《大人が作り・子供が見る》という二重性がある。この二重性に着目すると、子供向けの作品のほうが大人向けの作品よりかえって、現代の大人の想像力のあり方をはっきり示してくれる場合がある。
  3. 現在子どもの世界でもっともメジャーな「造られた世界」(ヴァーチャルな物語環境)とはなんだろう。それはテレビの怪獣映画、特撮番組の世界だろう。
  4. この「造られた世界」を作っているのは大人だ。だけど大人が意識的に作品の全てをコントロールしているとはいえない。また、子供が怪獣映画を見る理由も、子供自身にとってもわからない部分がある。(つまり、怪獣映画のブームには大人と子供の無意識が大きく関与している)
  5. しかし、メディアぐるみの特撮ブームを牽引するのが"無意識の何か"であっていいのか。特撮作品に内在する意味を十分意識化せずに作品を作り、子供に提供し続けるのは、大人として無責任ではないのか。
  6. 1970年代の特撮作品は、我々自身にどういうメッセージを伝えているのだろう?
  7. まず特撮における怪獣をみてみよう。怪獣の特徴は、その多くが放射能とかマッドサイエンティストの実験とか異常な環境によって異常化した、自然の生命体だということだ。
  8. 放射能によって怪獣になった生命体というのは多い。その中には被爆者に対して差別的なものもあった。この、差別という点は今後もよく検討されなければならない。
  9. 放射能への恐怖の背後には核兵器への恐れがあるだろう。世界を滅ぼしかねない核兵器の恐れの前で我々は無力である。ウルトラマン等のヒーローがいなければ怪獣の前で人間たちが徹底的に無力なのと、それは対応している。
  10. 1970年代の現実のわれわれは、日々核兵器の脅威と対峙している。それはまさにウルトラマンなしで怪獣に日々対峙しているようなものだ。こういう異様な現実があるからこそ、「毎週怪獣が襲来して危機に瀕する世界」なんてものが、たとえ想像の世界とはいえ、リアリティを持つのではなかろうか。
(2)
  1. 渡辺一夫『乱世の日記』からの引用。15世紀ヨーロッパにおいて奇形の動物が出現したことを記録している一市民の日記に、渡辺一夫は当時の終末観を感じ取っている。
  2. 「狂った年に狂ったことが起きる」ということ。奇形の出現は乱世の予兆のようである。
  3. モンテーニュも日記に自分の見た奇形児のことを記録している。
  4. モンテーニュの日記の一節の引用。奇形児の記録。
  5. とはいえモンテーニュは奇形をことさら不吉な怪異とは受け取っていない。それらも自然の一部であって、ただわれわれの先入観が奇異とみなすだけだとしている。奇形を含めた全てを"自然の理性"が意味づける日が来るのをモンテーニュは期待している。しかし、モンテーニュの細かい記述を読んでいると、「狂った年に狂ったことが起きる」という連想の論理こそが"自然の理性"のようにも感じられてくる。
  6. 「狂った年に狂ったことが起きる」というような"自然の理性"でもって、現代の特撮世界を見るとどうなるかを考えてみたい。かつてのヨーロッパにおける奇形の出現が乱世の予兆を表しているのだとすれば、現在のフィクションにおける怪獣という形象は何の予兆なのか。次世代の人間たちは、それが何の予兆だったのかをより明らかに知ることになるのではないか。
(3)
  1. 特撮映画は怪獣だけで成り立っているわけではなく、そこにはウルトラマン等のヒーローも登場する。彼らは怪獣とは対照的に、自然の生命体らしさは消去され、科学的イメージが強調されている。改造人間であったり、ロボットであったり、進歩した未来的世界である他の星からやってきたものであったりする。
  2. スーパーヒーローたちを"科学の精"と呼ぶことが出来そうだ。ここで、現実のビッグサイエンスである核兵器について考えてみる。核兵器には巨大なパワーを持ち、そのパワーは人間に悲惨さを与える。パワーはすなわち科学の威力だが、そのもたらす悲惨さの方は、現代医学でも対応しきれていない(つまり大江は科学の二面性を指摘している)。
  3. 特撮作品において、怪獣たちの前で一般の人間は無力である。特殊部隊や自衛隊といった"准科学的集団"が怪獣と戦うが、やはり怪獣には勝てない。そこで現れるのが、"科学の精"であり、科学パワーの面を表したスーパーヒーローたちである。
  4. 科学のパワーを表すスーパーヒーローとコミュニケーション出来る人間は、大抵の場合高潔な科学者と優等生の子供だ。逆に怪獣の側にいるのは、悪のマッド・サイエンティストである。科学の善と悪は物語的に分断されてしまっている。
  5. スーパーヒーローたちは"正義=科学=パワー"ということだけを印象づける。科学のパワーがあわせもつ悲惨ということへ想像を進める手がかりはそこにはない。
  6. このような質の想像力は、科学技術の正の面だけを強調する「日本列島改造計画」のような政治家の言説と親和性が高いといえそうだ。
(4)
  1. そもそも大江が特撮に関心を持ったのは、都市の破壊描写に視覚的に惹かれたからだった。
  2. とくに怪獣が上陸する東京港近辺の建物はよく破壊された。
  3. 都市が何度も破壊される光景を見るうちに、大江はこの破壊した都市を再建するのはどれだけ困難か、ということを考えるようになる。広島・長崎及び沖縄という、大きな困難に見舞われ、その後の再建も困難を極めた土地の記憶が思い出される。
  4. しかし子供たちが番組の中の破壊された都市に心を痛めているかというと、そんなことはない。番組は破壊された都市の困難な再建の様子は描かず、ただ毎回同じように元通りになっている東京を描くからだ。
  5. この編集は大人による意識的な処理である。破壊の悲惨さ、再建の困難ということを描いていたら番組が成立しないからだ。リアリズムは無視され、超科学的スーパーヒーローはただ聖化し続けられる。
  6. 同じような方法で、たとえば現実のベトナム戦争から悲惨さを省略した報道を行えるだろう。子供の頃から特撮番組の方法論を受け入れるなら、そのような欺瞞的な報道手法にも疑問を抱かなくなるかもしれない。その時、「狂ったこと」から「時代の狂気」を読む我々の"自然の理性"は、ウルトラマンによって破壊されてしまっているのだ。

まとめ

大江がウルトラマンを批判した文章として読まれることが多いが、実際はウルトラマンというより、特撮ヒーローものというジャンルの構造について書かれた文章だ。
その批判は、

  1. 怪獣映画を通じて現代の無意識を読む。
  2. その上で、怪獣映画が示す現代へのメッセージに対する、われわれの意識的な欺瞞を批判する。

という二段構えの構造を持っている。特撮ヒーローものというジャンルを否定するのではなく、ジャンルの可能性のある部分が検閲されていることが批判されている。
第1節で示される大江の怪獣映画へのアプローチは精神分析に似ている。大江は怪獣映画を大人たちの無意識が反映した、時代が見る夢のようなものとして見ている。怪獣映画の中での「世界の危機」は、現実世界での核戦争の恐怖の反映ではないか、と大江は考える。
第2節で大江は「奇形の出現」を「時代の予兆」と見る神話的想像力の図式をあえて導入する。そのような図式から怪獣とヒーローのドラマを見ると、それはどのような時代のしるしだろうか。
第3節で大江はスーパーヒーローが現代の科学の正の部分だけを切り離してあらわしていることを指摘する。
第4節では都市の破壊とその困難な回復という問題が、特撮作品では意識的に省略されていることが批判される。これは怪獣映画の無意識的なメッセージを観客が読み取ることを不可能にするものだ。

ありがちな誤読

この文章は"進歩的文化人"による怪獣映画への上からの批判、という先入観とともに読まれやすいようである。その際、誤読しやすいと思われるポイントが二つある。
一つは冒頭。

 子供のための文学、映画、劇が、大人によってどのように造られるか? そこには単純な構造の、しかし複雑な課題がこめられている。それは子供の眼、意識が受けとるべきものを、大人の眼、意識によって造るものであるからだ。子供と大人のあいだの、たがいに排除しあう境界線がはっきりしないような、「子供大人」あるいは「大人子供」の幻的人格が造ったものには、どこかいかがわしいところがある。子供の想像力を開放する作品は、自立している大人の想像力によって造りだされねばならない。それは単純な原則である。

この"「子供大人」あるいは「大人子供」の幻的人格が造ったものには、どこかいかがわしいところがある"という箇所を、怪獣映画への直接的非難として読んでしまう事があるようだ。そう読めば、以下に続く文章も怪獣映画への糾弾としか思えないだろう。
しかしそれは、後の論理展開にそぐわない。大江は怪獣映画を自立した大人の想像力によって造られていると考えている。だからこそ子供たちは怪獣映画に熱狂するのだし、だからこそ怪獣映画を通じて大人の精神分析を行うこともできるのだ。大江は怪獣映画を子供向きの怪しげな娯楽と下に見ているのではなく、同時代の大人たちの無意識が投影された創作物として分析しようとしている(とはいえ、ここで投影されているのは大江個人の問題にすぎないのではないか、という批判はあるだろう)。

もう一つの誤読、というか誤解されやすいポイントは、第一節で怪獣と被爆者差別について注意を促した段落だ。
ここだけ切り出すと大江は「怪獣映画は被爆者に差別的な表現をしたからよくないものだ」という単純で教条的な批判をしているように思える。しかし、文章の全体を見ると、これは後の論理展開のために必要な予防線として書かれていることがわかる。
大江は第2節以降で"狂った出来事(例えば奇形の出現)"を"狂った時代のしるし"として読むような想像力の論理をあえて導入している。この論理を現実の被爆者にそのまま適応してしまえば、それは差別以外の何物でもないだろう。だからこそ、あらかじめ差別的表現の危険性を指摘しておく必要があった。この批判はその後の論理展開における自制であり予防線として機能している。

感想

『破壊者ウルトラマン』の背景には、核時代としての現代という大江の時代認識が前提としてある。大江は核時代における終末論的想像力のひとつのあらわれとして怪獣映画を捉えている。
そのような捉え方は一つの商業的ジャンルに著者のオブセッションを投影しているだけだという批判もあるだろう。
確かに怪獣映画、特撮というジャンルの総括的批評としては不完全だろう。しかし、怪獣映画の中に時代の無意識の構図を読み取る大江の方法論は今なお有効性を失っていない。
『破壊者ウルトラマン』が指摘している"科学のパワーの両義性"と"世界の回復困難な破壊"というテーマは、後のサブカルチャーにおける終末論的想像力に関わる諸作品において、重要なポイントになっている。たとえばAKIRAナウシカエヴァ

追記(2013.12.16)

以下はある右派的な新興宗教団体のサイトの、2013年の記事だ。
【魚拓】円谷プロ創立50周年 もしウルトラマンが防衛大臣に就任したら? | ザ・リバティweb

ウルトラマンを見直すと、日本を防衛するための参考になる点がある。たとえば、「ウルトラマン」第2話では、バルタン星人迎撃のため防衛軍が核ミサイル「ハゲタカ」を使用する場面がある。これは国産の核兵器だろうか。「非核三原則はどうした」と言いたくなるが、日本に攻めてくる圧倒的な敵に対しては「核保有」も選択肢の一つではあろう。

また、「ウルトラセブン」に登場する地球防衛軍は、日本に最大の基地を置くが、そこにはミサイル搭載の原子力潜水艦「ハイドランジャー」や、戦闘機発着可能な原子力船「マックス号」がある。これは事実上の原子力空母だ。

これらは自衛隊で採用してもよいアイデアではないか。たとえば、中国がつくる空母部隊に対して、原子力潜水艦のトマホークで対処すればいい。 日本が生んだヒーロー「ウルトラマン」を違った角度から見直すと、現在の日本に必要なものが見えてくる。

ウルトラマンを通じて日本の核武装が肯定的に提案されている。ここには、大江が40年前に危惧したものが、稚拙な戯画のような形で現れているように思える。